雨森芳洲は、江戸時代中期の儒学者で対馬藩に仕え、李氏朝鮮との外交実務に携わっていました。
朝鮮通信使では、第8回と第9回のときに接待責任者を務め、通信使からも高い信頼を得ていました。
芳洲が61歳のときに著した「交隣提醒」は、対馬藩主に上申した朝鮮外交の意見書で、ユネスコ「世界の記憶」に登録されている資料の一つです。
その中で彼は、外交の基本は相手の風俗習慣をよく理解し、お互いを尊重しあうことが肝要であると説き、「お互いに欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」と述べ、「誠信」(誠意と信義)による外交の必要性を訴えています。
62歳のとき、朝鮮と米貿易の交渉を委ねられた芳洲は、2年ほど釜山に滞在しますが、その交渉相手が玄徳潤で、彼とはお互いに認め合い、尊敬しあう間柄でした。
その玄徳潤が、釜山の古くなった朝鮮庁舎を、私財を投じて建て替え「誠信堂」と名付けました。
これに深い感慨を覚えた芳洲は、そのことを讃えて「誠信堂記」と題する一文を書きあげ、その中で「交隣の道は誠信にあり。この堂に居て交隣の職に就いた者は、このことを深く思わなければならない。」と述べています。
この書は誠信堂内に掲げられ、朝鮮の人々の胸にも焼きついたと伝えられています。